LOGIN金木犀が香る裏庭。芝生の上で寝転ぶ鈴代。甘い花の芳香は、苦い二つの記憶を呼び起こす。早春の出来事と、今朝の騒動。
その日は、沈丁花が満開だった。むせかえすほどの甘い、花の香りに酔いしれた無邪気な少女たちは、ほんの戯れと称して、宙を舞った。空想が生み出した残酷な遊戯。
……妖精のように空を駈けるの。そして、あのこは死んでしまった。 鮮やかで艶やかな赤黒い血の海が、沈丁花の芳香を一瞬で、かき消す。あの時、わたしは彼女に? ……重力があるから空なんか飛べるわけないって、十五歳のわたしたちはわかっていたのに。 それでも何かから逃げ出すように、飛び出そうとしたのは、見せつけるように迫られたのは、わたしだと思ったのに。 哀しい事故。そのヒトコトで片付けられた時、それでいいのかと脱力感に陥った。もっと厳しく罰せられるものだとばかり思ったから。罰はなかった。でも。――人殺しの魔女! 返してよ! 返して!
人殺しの魔女だと呪われるようになった。氷の礫を投げつけられたような、言いがかりに近い強い憎悪に襲われて、鈴代は認めるしかなかった。自分は、他人を不幸にする人殺しの魔女かもしれない、と。
憎まれて蔑まれて罵られて。病弱な身体はより消耗した。代謝機能が低下している。このまま呪われて死んでしまうのだろうか。それでも仕方ない、自業自得だと、諦めて、夏を迎えた。 自分なんかいつ消えてもいいと、思っていたから。 突然、見知らぬ少年にキスされた時の驚きは今も心の奥底で燻っている。しかも、自分の心に、今まで感じたこともない熱い想いが生まれるなんて。 ごろり、寝返りをうつ。新緑の季節を通過した木々は、赤や黄色に色づき始めている。 時間が経過しても、心に燈された小さな恋の炎は、鈴代が消そうとしても消えなかった。 そして、彼……上城と再会したことで。再び。鈴代は自分の恋心を認めざるおえなくなった。 だけど、今朝、また、鈴代の前で、親しい人が、思いがけないことで、倒れた。まるで本当に呪われているみたいだ、と鈴代は嘲笑する。自分が家に残っていても何もできないことがわかっているから。これは事故なんかじゃない、明らかに何者かによる殺人未遂だ。警察に任せるからお嬢様は心配しないで、と、家政婦に言われ、逃げ出すように学校に行ったけど。 怖い。人殺しの魔女の家で、殺人未遂があったなんて、知れ渡ったら。 ……上城は、それでも傍にいてくれる? 彼の、優しさが溢れた眼差しが、不安で震えている鈴代を包み込む。全部吐き出したいくらいだった。だけど、そんなことして嫌われたら嫌だ。 だから、何も言えない。燃えあがる想いを秘めて、今日も彼の前から逃げ出してきたばかりの鈴代は、散りゆく金木犀の朽ち果てた花を見上げ、眉をひそめる。――人殺しの魔女に恋した愚者がいるらしいよ。
噂はいつだって一人歩きする。知られてしまうのは時間の問題。そしたらきっと、上城もわたしの傍から姿を消す。それなら、近寄るなって自分から距離を置いた方が楽。
それなのに、上城は。 上城は…… 「みつけた」 濃紺の見慣れた学ラン、なのに、上城が着ていると胸がときめくのはどうしてだろう。鈴代は起き上がり、上城を見上げる。がさり。落ち葉のこすれ合う音が、二人の耳元に届く。「風邪、引くぜ。もう、夏じゃねーんだから」
芝生の上に座り込んだままの鈴代の顔を覗き込みながら、上城も隣にしゃがみこむ。
「スズシロ? どうした。何かあったのか?」
俯き、憔悴しきった鈴代の両肩をそっと、掴む。抵抗しない彼女を、抱き寄せ、背中を静かにさする。じんわり、彼の身体の熱が、冷え切った鈴代の身体に流れ出す。
「……カミジョ。呪いって、信じる?」
上城の顔が強張る。自分が聞き出そうとしていたことを、まさか鈴代が口にするなんて。あれだけ隠していた、鈴代が、自ら呪いのことを言葉にするなんて。
「信じないよ。どうして?」
明るく言い放ち、問い返す。今日の鈴代はどこかおかしい。いつものように上城と言い争うこともせず、教室を飛び出し、一人、金木犀の咲く裏庭で、物思いに沈んでいたのだから。
不審に思った上城は、鈴代を探した。そして、見つけた。今にも消えてしまいそうな彼女を。「……あのね、カミジョ」
黙っていた鈴代は、上城の質問の答えを噛み締めるように、薄紫色の唇をわななかせる。
「わたしの前で、親しい人が、死んでいくの」
即座に、上城から否定の言葉が零れる。
「嘘だ」
「ほんとう。今日だって」振り絞るように、言葉を繋げる。
「お父様が、わたしの目の前で……」「またお会いしましたね」 応接室にずかずか入って、ソファにどっしり腰掛けた人物を見て、平井は苦笑する。「あまり会いたくないですけどね。鈴代賢季さん。それでは、事情聴取を始めさせていただきますよ」 「まぁそう焦らずに」 賢季はにやにや笑いながら平井を見つめる。平井は賢季が何を考えているのか見極めようと、彼の言葉の続きを求める。「警察は、今日の出来事をどう考えているんでしょう?」 「守秘義務がありますから言えませんよ」 「単純に、殺人事件だと思いますか?」 「それはどういうことです?」 「人間ではない何かによる非現実的な現象、とは捉えられませんかね」 「ばからしい」 即座に応えた平井を見て、賢季は嘲るような表情を見せる。「ですが、鈴代一族には呪われた人殺しの魔女という言い伝えが存在しているんですよ」 「……人殺しの魔女、だと」 「そうです。他の方々は何も言いませんでしたか? 人殺しの魔女、という単語を口にするだけで案外、隠していることを吐く人間も多いと思いますよ」 平井に助言するように、賢季は口ずさむ。「それが、殺人事件と関連があると」 「そう考えている人間が殆どだと思いますよ。ある意味非現実的な現象ですから、警察の方にとってみれば面倒な事態でしょうけど」 どこか楽しむように、賢季は平井の顔を見据える。お前たちにこの深い謎が解けるのかと挑むように。「呪い……か」 黙り込み、何かを考えるように平井が首を振る。そして、賢季を見返す。「……何か?」 「人殺しの魔女について教えて欲しい。この事件は……複雑すぎる」 平井の苦虫を噛みつぶしたような発言に、賢季は頷く。確かに、この事件は複雑だ。自分たちに関係ない人間にとってみれば。「いいですけど、一つ条件が」 賢季は勝ち誇ったように、平井に提案する。平井は渋々、彼のやりたいことを認める。 そして賢季は口にする。「人殺しの魔女は、泉観ですよ」 更に複雑にさせる、誤解を招くような言葉を。 * * * 「鈴代泉観が怪しいです」 応接室に入ってくるや否や、声高々に平井に向けて言い放ったのは東金豊。真新しいメイド服が眩しい。 平井は次期財閥当主が怪しいと豪語する豊を一目見て、何かおかしいと感づく。 ……まるで、次期財閥当主を糾弾しているようだ。何が彼女をそうさせる
「泉観ちゃんが殺したわけないわよね?」 食堂で、やんわりと問われた。鈴代は無言で頷く。 それでも、自分を忌々しく感じている親族はここぞとばかりに責めたてるのだろう。こう見えても叔父夫婦は、まだ鈴代のことを理解してくれている方だ。 このことが外へ漏れ出すと、鈴代が悪役に変貌する。だから、親族にも本当のことは伝えていない。今は、まだ。 ……自分の父親を手にかけようとした恐ろしき娘、しかも長年仕えていた執事をあんなに惨たらしい姿にするとは……虚実をまるで本当にあったことのように、彼らは囁きあい、呪うのだ、人殺しの魔女が、魔女がと。 鈴代はぶるっと首を左右に振り、玉貴を見上げる。背の高い叔母は、小声でそっと囁く。「紗枝がここにいなくてよかったわね」 ここに紗枝がいたら、きっと真っ先に自分の娘を疑うわよ。人形のように美しく、恐ろしいほどに頭のいい自分の娘を、陥れるために。「紗枝ってスズシロのお母さんのことか?」 玉貴と鈴代の会話を黙って聞いていた上城は、ここぞとばかり口を挟む。「そうよ。あなたが春咲くんね」 応えたのは玉貴だった。上城は首を縦に振る。 鈴代玉貴。彼女は賢季の母親とは思えないほど若々しく見える。 ピンと伸びた背筋、洋館には不似合いなライトブラウンのショートボブ……まるでキャリアウーマンのようだと上城は考える。叔父の執務を傍らで手伝っているらしく、そうとうな切れ者とも言えよう。「夏澄くんに似てきたわね」 「……父を知っているんですか?」 「だって。ジゼプ・コンツェルンの要員だったじゃない。財閥関連の子会社なら一通り顔を覚えているわ、取締役から常務くらいまではね。その中でも夏澄くんは印象的だったから」 「え」 困惑する上城を気にせず、玉貴は語る。それは、彼すら知らない父親の素顔。「ロシアでのプロジェクトを命じたのは夫の会社の人間だと思うけど……彼ら、最低三十年はかかると思っていたのよ。その任務を遂行させるのに。だけど、夏澄くんは二十年しないで片付けちゃった」
パシャリパシャパシャと、写真を撮る音が洋館中に響き渡る。警察に呼ばれ、屋敷中の人間が……自我の崩壊した鈴代紗枝は美弦によって鍵のかけられた部屋に残されていたが……集合する。紗枝を除いて九人だ。 鈴代夕起久の弟で鈴代の叔父、叔母にあたる明起久と玉貴。彼らの一人息子、賢季。 鈴代家に仕える女中頭、市川房江。メイドの近淡海緑子と遠藤美弦、三日前から働き出したばかりの東金豊。 そして、上城と鈴代。 平井は見かけない人間が二人もいることに気づき、顔をしかめたが、何事もなかったかのように自分の仕事を続けていた。が。「死後一時間以上は経過しているみたいですね」 上城が口にした何気ない一言を、平井は見逃さない。「どうしてそう思った?」 「花が萎れています」 「は?」 思いがけないことを言われ、平井は絶句する。花台の上に置かれていた人の頭を割れそうな重々しい陶器の花瓶を、手袋をした鑑識がおそるおそる持ち上げる。呆気なく持ち上がる。溢れるように金木犀の花が生けられている割に、軽かった。持ち上げた途端、はらはらと橙色の小花が舞い散る。「警部、水が入ってません」 平井は上城を見て、頷く。その横で、明起久が唸っている。彼の洞察力の鋭さは、父親譲りのものだろうと。 上城が平井と対話しているのを呆然と眺めていた鈴代は、肩を叩かれ、顔を向ける。豊だ。「……なんですか」 「あたし、あんたを疑うのが怖くなってきたわ」 「はぁ」 気の抜けた返答を見て、豊は困惑する。「人殺しの魔女、って罵ってくれた方がこっちとしては相手しやすいんですけどね」 溜め息の後に出た言葉は、まるで豊を牽制しているかのよう。それを見た豊は、ぷぅと頬を膨らませ、小声で言い返す。「やっぱやめるわ。あたし、あんたの曖昧な態度大っ嫌いだから」 「それは、人殺しの魔女がわたしであるということを認める発言ですか」 「いいえ。疑ってるだけ。本当だったらあたしがマドカの仇を討ってるわ」 「それは心強い」
冬将軍に唆されて、魔女はついに動き出す。 死神に選ばれたのは。選ばれたのは…… * * * 「あなたが、第一発見者ですね」 夕方六時四十五分。通報を受けた警察が駆けつけて、洋館の周囲をパトカーの赤い光が照らし出す。玄関に集う関係者たち。「……そうです」 平井に問われ、頷いたのは、鈴代一族とは無関係な綺麗な顔だちをした少年。鈴代泉観の肩を抱いていることから、どうやら次期財閥当主と親しい人間らしい。「お名前は」 「上城春咲です」 「カミジョウ?」 一瞬だけ、ざわめきが生まれる。だが、上城が口を開くと、そのざわめきは一蹴されたかのように消える。 ……スザク? だが、上城という言葉に反応した人間だけではなかった。上城の名前を耳にして大きく眼を見開いた人間もいた。豊だ。 ……賢季が言ってた「スザク」が、愚者なの? 豊の表情の変化を見た賢季は、無表情のまま、彼女の様子を確認している。「親父は、関係ないですよ」 上城は困ったように平井を見つめる。 鈴代は、叔父たちの困惑顔を見ても無表情だ。自分が彼のことを好きになったのだから。上城は、自分の父親を、彼らが個人的な理由でロシアへ遠ざけたことを、知っているのだろう。それでも、憎まれ口一つ叩くことなく、淡々と事情聴取に付き合っている。 泉観の傍にいたのが、上城夏澄の一人息子だと理解していたのは、本人と賢季、それから彼を接待した女中やメイドたちだけだ……そして、すでにそのなかの一人が、亡き者になっている。 * * * 死体が見つかったのは玄関を抜けてすぐわきにある花台の下。橙色の金木犀がむせ返るような甘い香りを漂わせていた。だから血の匂いに気づけなかったのかもしれない。 花台を飾っていた白いレース編みがされたテーブルクロスに、不似合いな赤い染みがあったことに、鈴代邸から帰ろうとした上城が気づいたのだ。そして、そのテーブルクロスを捲ると……身体を胎児のように丸めたま
バタン!「どうしたんだいそんな大きな音を立てて扉を閉めるなんてなっていないなぁ」 「ちょっとどういうことよ!」 鈴代から逃げるように豊は賢季の部屋へ向かった。賢季は顔を真っ赤にしてぜいぜい息を切らせている豊を見ても、何食わぬ顔で憎まれ口を叩く。「なんのことだい?」 「鈴代泉観のことに決まってるでしょ!」 賢季はそれでも首をかしげたまま。豊は彼を無視してソファに腰掛け、言葉を続ける。「彼女は自分を人殺しの魔女だと認める発言をしているわ。もしかしたら殺しているかもしれないと」 「そのようだね」 「でも、マドカのことを問い詰めれば問い詰めるほど、彼女は不思議なことを言ってあたしを煙に巻くのよ、これじゃあ本当のことを知ることなんてできるわけないじゃない!」 真実を知りたくないか? そう、賢季は豊に提案したのだから。 真実を知る方法なんて調べてもいなかった。だから、該当者とはちあった瞬間、感情に任せて憎しみを振りまいていた自分。 これでもし、彼女が円を殺していないとわかったら。豊はその可能性に気づき、愕然とする。 ……今までそのことにすら気づけなかった不思議。 まるで何者かによって操られていたかのよう。鈴代泉観こそ妹の円を殺した憎き人殺しの魔女だと。 そもそも。 ……なんであたしは、葬式の時に彼女のことを人殺しの魔女、だなんて叫んだの? 黙りこんでしまった豊を見て、賢季が声をかける。「簡単な暗示だな」 「え」 「人殺しの魔女という非現実的な呼び名を、ユタカは自分が自分で口にしたと思い込んでいるようだけど。実際のところ、そうであると誰かが認めているのか?」 賢季の怖いくらいに真面目な口調が、豊を驚かせる。「本当のことを、覚えていないのは、泉観だけじゃないんだ。ユタカ、君が本当のことを取り戻さない限り……本当のことを思い出さない限り、君が知りたい真実は浮かび上がってこないよ」 ……あたしの目の前にいるのは誰? 賢者の言葉に耳を傾け
「ようこそ、上城様」 門下で鈴代と上城を迎えてくれたのはこの館の執事、小堂雄二郎だ。 黒いスーツを着ている彼は、ダンディな伯父さんのようにも見える。だが、鈴代の親戚ではないらしい。「わたくしめは夕起久様の傍に仕える人間ですから」 鈴代家と小堂家は古くから交流があったらしい。小堂家の次男坊だった彼は、弟のような存在だった夕起久に仕えることを選んだという。上城はふぅん、と気の抜けた声を出す。「お邪魔します」 鈴代に連れられて、上城は彼女の部屋に向かう。すれ違いざまにメイドの緑子に挨拶される。つられて上城も礼を返す。鈴代は無視して階段を上っていく。 二階の廊下へ出たところで、上城は思いがけない人間と再会を果たす。それは。 メイド服を着こなし、雑巾片手に歩き回っている豊で。「お、お前」 「……なんでこんなところに愚者が」 鈴代は豊と上城が顔を見合わせ、互いに納得いかない表情をしているのを見ても無表情でいる。「お前こそなんでここに」 「見てわからない? 鈴代邸で働いているの」 「この人よ。東金豊さん、一昨日から賢季さんに紹介されて働き出した人」 鈴代の淡白な態度に、上城が豊から顔をそらす。「そして」 何か言いたそうな豊の前で、鈴代は冷酷にも、彼女が思っていることを、そのまんま口にする。「わたしが殺したかもしれない人の、お姉さん」 急激に温度が下がったような感覚に、上城は陥る。鈴代と豊の睨み合いは、それだけ生々しかった。 真実を知らない同士の、真実を知るための戦い。まるでこの睨み合いが戦いの合図みたいだ。 だが、鈴代の投げやりな態度が、上城には理解できない。だから。「スズシロ」 言い過ぎじゃないかと、上城が声をかけたその時。「あんたがマドカを殺したの?」 豊は声を荒げる。何度も何度も彼女に聞いたことを、もう一度口にする。 鈴代は、それでも無表情のまま、首を左右に振る。殺したとは